Home / ファンタジー / 最後の奇跡 / 第四章 聖典の悪魔③

Share

第四章 聖典の悪魔③

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-18 20:08:11

 スフェルがエミルを保護して、三ヶ月ほどが経ち、王都には春が訪れていた。

 エミルの記憶は一向に戻る様子はなかったが、傷が癒え、施療院を退院した後、寝食の場は隣接する礼拝堂へと移っていた。今のエミルはシスターの見習いと雑用をして日々を過ごしている。

 退院前にスフェルはエミルを訪ね、城で自分の侍女になる気はないかと打診したが、すぐにその場で断られた。いつまでも守られるのではなく、自分の足で立って生きていきたいのだと彼女は言った。そして、彼女は施療院の隣にある聖セレーデ教会王都礼拝堂の神父マウロを訪ねて頼み込み、生きていくための手段と衣食住を自力で手に入れた。

 権力に阿る様子のない彼女をスフェルはすっかり気に入り、時折、城を抜け出しては、生活に不自由はないかと様子を見に来ている。今日も公務と公務の間に無理矢理時間を確保し、スフェルはセイランを伴い、城下の礼拝堂へと足を運んでいた。

(誰かに見られている)

 城からの道中、何者かの視線を感じていた。気になったセイランは建物の中へは入らず、柵に繋いだ馬たちと共に外でスフェルを待っていた。

 懐から革袋を出し、角砂糖をいくつか手に乗せて黒褐色の毛並みの主君の愛馬へと与えてやりながら、セイランは気配を探る。神聖騎士団に属する僧兵がエミルを狙ってレシェールから差し向けられたのかと思っていたが、こちらを窺っているのは明らかに戦い方を知っている人間ではなさそうだった。一応、隠すつもりはありそうだったが、気配の隠し方が拙過ぎる。

 視線の元を辿ると、隣の施療院の角にカーキのフーデッドポンチョを纏った小さな人影があった。顔はフードで隠れていてよくわからなかった。

(……子供?)

 背格好からして、エミルよりおそらく二、三歳年下の少年だと思われた。さほど有害そうには見えなかったが、食い入るように礼拝堂の扉を見つめているのが気にかかる。

 セイランは馬の世話を装って、スフェルが建物から出てくるまで、その場で少年の様子を観察し続けた。

 三十分ほどして、建物の扉が開き、スフェルとエミルが楽しげに談笑しながら姿を現した。

「それでは、エミル。また来る。何か不自由あれば、いつでも言ってくれ」

「とんでもないです、スフェル殿下。それよりもあまりセイラン様を困らせないでくださいね。何だか少しお疲れのようでしたから」

 エミルの言葉にセイランが内心で激しく同意していると、少年が息を飲んだのを感じた。少年が何事か小さく呟いたが、セイランは聞き取れなかった。少年は身を翻し、どこかへと駆けていった。

 一体何だったのだろうと思いながら、セイランは戻ってきたスフェルへとオリーブの手綱を渡す。セイランは心地よい春の陽気でうとうとする栗毛の愛馬を起こすと、左足を鐙に乗せて身体を引き上げ、馬体に跨った。

 セイランがこの少年に遭遇したのは先にも後にもこの一度きりだった。この出来事は些細なものとして、じきに日常の中に埋没していった。

 エミルが王都の礼拝堂で暮らすようになって、三度目の冬が巡ってきていた。彼女は、分厚い雲に覆われた灰色の空を見上げて、冬用の分厚い生地のシスター服に包まれた体を震わせた。太陽の日差しがないというだけのことで、体感温度が何度か下がるような気がする。

 エミルには、ここへ来る以前の記憶がない。三年前、礼拝堂に併設された施療院で目覚めたときの彼女は、自分の名前や年齢すらも覚えていなかった。現在、名乗っているエミルという名も、呼び名がないと不便だからと、スフェルが与えてくれた仮初のものだ。聖典から引用された、かつて荒廃から人々を救ったという神の使徒の名に、彼女は少し気後れを覚えている。

 この天気では乾かないかもしれないが、神父に言いつけられた洗濯を終わらせてしまおうと、エミルは傍らの洗濯籠に盛られた洗ったばかりのシーツを手に取った。隣の施療院の分もまとめて洗ったので、結構な量がある。彼女が慣れた手付きでシーツの洗い皺を引っ張って伸ばしていると、人のよさそうな老人が姿を現した。

「エミル」

「神父様」

 彼女の名を呼んだ好々爺然とした男はこの礼拝堂の神父であり、名をマウロと言う。マウロは周囲を気にするように、声を潜めると、

「エミル、スフェル殿下がいらっしゃっておられます。早くこちらへ」

 言われてみれば、礼拝堂の裏でぶるると馬が控えめな鳴き声を上げているのが聞こえる。エミルは洗濯物を干そうとしていた手を止め、手にしていたシーツを洗濯籠へと戻すと、マウロの後を追って、建物の中へと入っていった。

「エミル」

 応接室に入ると、ソファに腰掛けて茶に口をつけていたアッシュベージュの髪の青年がエミルの名を呼んだ。

「すまない。忙しいところに来てしまったか?」

「いえ、とんでもないです、スフェル殿下。ちょうど手が空いたところでしたので」

 絶賛洗濯中だったことはおくびにも出さずに、エミルはそう言った。

 エミルを訪ねてきた、余計な飾り気はないがよい身なりをした青年は、御年二十九歳となるこの国の王弟、スフェル・ローデリアである。

 エミルは、三年前、王都の西の街道で怪我をして気を失っていたところを馬で早朝の遠駆けに出ていたスフェルに助けられ、この礼拝堂に隣接された施療院に連れてこられた。それはちょうど、王都西郊の村であるフィエロが盗賊団に襲われて滅びた事件――『フィエロの悪夢』の翌朝のことだったという。

 スフェルは、エミルが事件の関係者ではないかと考えていたが、施療院で目覚めた彼女は過去の記憶を全て失ってしまっていた。本当は彼女に色々と聞きたいことがあったが、記憶を失うほどの恐ろしい目に遭ったと思われる少女を問い詰めて変に刺激することはスフェルにはできなかった。彼は、無理に彼女から過去の出来事を引き出そうとすることを己にも他人にも禁じた。実際、目覚めたばかりのエミルは、どこで嗅ぎつけたのか、たまたま王城に滞在していたというレシェールからきた大司祭が施療院に押しかけてきたとき、居合わせたスフェルに庇ってもらった。

 スフェルにとって何か益があるとは思えないのに、それ以降も彼はエミルのことを気にかけ、たまにこの礼拝堂を訪れていた。

「エミル、元気にしていたか?」

「ええ、おかげさまで。スフェル様もお元気そうで何よりです」

 通り一遍の挨拶を済ませると、スフェルは、畳んでソファにかけていたチャコールグレーの外套の中から、小さな包みを取り出し、エミルへと差し出した。ほんのりと甘い、いい香りが彼女の鼻腔をくすぐった。

「毎度毎度気の利かないものですまないが……よければ皆で食べなさい」

「いつもお気遣いいただいてすみません。ありがたくいただきますね」

 エミルはスフェルへと頭を下げると、香ばしい香りのする包みを受け取った。スフェルは満足げに柔らかく微笑んだ。

 スフェルはエミルのところへ顔を出す度に、流行りのお菓子を手土産に持ってくる。一応、エミルの負担になり過ぎず、なおかつこの年頃の少女が喜びそうなものを選んでいるつもりらしいと、以前にスフェルの従者であり、書類上ではエミルの従兄ということになっているセイランがこっそりと教えてくれた。エミルは少し不器用だけれど温かなスフェルの心遣いが嬉しかった。

「ところで、今日はお一人でこちらまで?」

 いつもはスフェルの傍に控えている従者の青年の姿がないことに気付き、エミルは問うた。スフェルはさりげなさを装ってそっとシスター服の少女から目を逸らす。

「……また、お城を抜け出してこられたんですね。セイラン様に叱られますよ」

「まったくですよ」

 溜息混じりの青年の声がエミルに同意を示した。いつの間にか、スフェルより幾つか年下の鳶色の髪の青年が戸口に立っていた。

「セイラン様」

「いつもいつもお忙しいところにどこぞの王弟殿下がお邪魔して申し訳ありません。……スフェル殿下、こちらに顔を出すことは止めませんが、せめて私にくらいは行き先を伝えてからお出かけください」

 見つかってしまったか、と苦笑いするスフェルに対し、殿下の身に何かあれば私の責任になるのですから、などとセイランはくどくどと小言を言い続けている。

 庶民に人気のある実に立派な人物であるはずの王弟と真面目で気苦労の絶えない従者――この二人はいつ見ても何だか騒がしい。その光景が何だかおかしくて、エミルは口元をそっと押さえると、くすりと小さな笑い声を漏らした。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 最後の奇跡   エピローグ 救済の聖女

     木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。  イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。  五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。  それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。  たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。  イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。  すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。  イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。  あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」  背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを

  • 最後の奇跡   間章Ⅱ 祈りを繋ぐ

     街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。  灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」  己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」  スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ

  • 最後の奇跡   第六章 奇跡の終焉⑤

     炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。  イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。  いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。  近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」  イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。  小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。  しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。  イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。  体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。  イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。  額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。  気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。  木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。  能力の行使で疲弊

  • 最後の奇跡   第六章 奇跡の終焉④

     煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。  記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」  リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。  ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。  しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」  リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」  蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。  どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」  なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり

  • 最後の奇跡   第六章 奇跡の終焉③

     先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。  リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」  方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。  ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」  声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」  そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。  ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」  足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」  イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ

  • 最後の奇跡   第六章 奇跡の終焉②

     リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。  肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」  眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」  山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。  まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」  山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。  これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。  けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」  ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」  リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。  イーシュ、気付いている?

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status